東急グループの礎を築いた人々

五島昇 (ごとう・のぼる)

1916~1989年

現在の基盤を確立した中興の祖

五島昇

父・慶太の跡を継いで社長に

五島慶太の長男として生まれた昇。学生時代は、野球やゴルフに熱中するスポーツ青年だったという。若いころは父に反抗心を持ち、東京帝国大学卒業後は東芝に入社した。しかし、事業を継ぐ予定だった弟が戦死。それをきっかけに、昇は29歳で東急電鉄に入社した。工場勤務の平社員からスタートし、鉄道車両などを製造するグループ会社などを経て、37歳のときに社長に就任した。

会長として最後までグループを率いた慶太が死去し、昇が本格的にその事業を引き継いだのは、ちょうど高度経済成長の入り口の時期だった。昇は、父が残した事業を宿題として引き継ぎ、新たな成長のための基盤づくりに邁進した。その「宿題」の中でも大きなものが、多摩田園都市の開発とそれに伴う鉄道の整備、伊豆の開発だった。

前例のない大事業を推進

多摩田園都市の開発には、交通動脈として20km以上におよぶ大井町線(現在の田園都市線)の延伸が必要だった。当時、これだけ大がかりな新線の建設を計画する民営鉄道は他になかった。昇は強くこれを推進し、1966年に最初の区間である溝の口~長津田間が開通。その後順次延伸し、中央林間までの全線開通には約20年を要した。
計画面積500万坪という国家事業規模の都市開発も、前例のない中、昇自身が先頭に立って地主と対話し区画整理を進めた。1962年に完成した野川第一地区(川崎市)の住宅地は、瞬く間に完売。以降の区画整理事業の「モデル地区」となり、開発は軌道に乗り始めた。1970年には人口10万人を超え、1987年に計画の40万人、1997年には50万都市を達成した。

一方の伊豆開発では、伊東と下田を結ぶ伊豆急行の建設を推進。当初の予定よりトンネル区間が増えて工事費がかさむなどの苦難の中、着工から2年後の1961年に開業した。慶太と地元民の長年の悲願を達成し、本格的な伊豆観光の時代を迎えた。

地元地権者との話し合い

地元地権者との話し合い

区画整理が終わった野川第一地区

区画整理が終わった野川第一地区

「三角錐型経営」でグループの方向性を示す

昇は東急グループが次代(1970年代以降)に成長するためのめざす姿を描いた。
鉄道とバスに航空を加えた交通事業、地域開発事業、観光サービス事業、流通事業の四面からなる「三角錐型経営」を唱えて、東急グループの向かうべき方向を示した。

北海道から九州までの各社での住宅開発に加え、日本初の外資系国際観光ホテルとなる東京ヒルトンホテルの開業、東亜国内航空(のちの日本エアシステム)による空路への進出などの他、全国各地にリゾートホテルやゴルフ場、スキー場などを展開し、「三角錐型経営」を実践していった。
グループの本拠地である渋谷では百貨店事業に力を入れ1967年には東急百貨店本店を開業。また、1978年には東急ハンズ、翌年にファッションコミュニティ109(現在のSHIBUYA109)を開業。複合文化施設 Bunkamuraも計画し(開業は昇の死去後の1989年9月)、街ににぎわいと回遊性を生み出していった。

多摩川の環境保全に取り組み、財団を設立

環境や社会問題への取り組みも早かった。1970年代に、多摩川流域の人口増加による生活排水で河川の水質悪化が起こると、企業として多摩川の環境浄化に取り組む姿勢を示し、1974年には環境浄化に関する調査研究に助成を行う「とうきゅう環境浄化財団」(現在の東急財団の前身の一つ)を設立した。設立にあたっては、東急グループのみならず、多摩川流域とかかわりがある関東民鉄4社(京浜急行電鉄、京王帝都電鉄、小田急電鉄、西武鉄道)にも、広く参加を呼び掛けた。

また各地のグループ会社が自然発生的に勉強会や地域貢献活動を行っていた「東急会」を、東急グループの正式な機関として組織化。国内外に広がったグループ会社同士の横の連携を強め、地域社会とのつながりを構築することにも力を入れた。

東横線丸子橋付近の水質の変化(1973年)

東横線丸子橋付近の水質の変化(1973年)

東横線丸子橋付近の水質の変化(1993年)

東横線丸子橋付近の水質の変化(1993年)

ハワイ島 マウナ ラニ ベイ ホテルとコンドミニアム

ハワイ島 マウナ ラニ ベイ ホテルとコンドミニアム

東急の街づくりを海外にも広げる

昇は、その生涯をかけて海外事業にも情熱を燃やした。高度経済成長を迎え、これからはアジアの時代になると考えた昇は、「環太平洋構想」を掲げて、1970年代から本格的に海外進出に取り組み始めた。ハワイ島西海岸の溶岩地帯に緑を増やしながらを開発したマウナ ラニ リゾートは、1981年にゴルフコース、1983年にはホテルがオープン。パラオ共和国ではパラオの自然と文化を最大限に活かしたリゾート開発を。オーストラリアでは、大都市パースの郊外地ヤンチェップ地区で、多摩田園都市での実績を生かした街づくりに着手した。

 

その後も太平洋地域の発展の夢を抱きながら、昇は、1989年3月に72歳でその生涯を閉じた。しかし、彼の思いは受け継がれ、リゾート開発や沿線開発で培った街づくりのノウハウを海外で生かすその手法は、現在のベトナム・ビンズン新都市の開発やタイでの不動産事業などのグループ事業へと発展していった。

五島昇 語録

五島昇が残した言葉の中から、彼の人となりや事業への思いが感じられるものを紹介します。

土地を売ってくれた地主さんが
どこに行ったのかわからないような
開発はしないことだ

出典 『ビッグボーイの生涯 五島昇その人』(城山三郎/講談社)

多摩田園都市の開発に当たって、事業責任者の柳田盈文(東急建設元社長)にかけた言葉。そろばんだけで考えるのではなく、地主たちが気持ちよく協力してくれ、その後も付き合い続けてくれるような開発をしなければならない。そんな思いを込めて、昇はこの言葉を、開発の基本として繰り返し語ったという。区画整理事業の初期には、昇は自らも自転車に乗り一升瓶を持って、開発地の地主を訪ねて回った。そこから、後に「東急方式」と呼ばれる業務一括代行方式による土地区画整理事業の手法も確立されていった。

※写真は元石川第一地区起工式直会会場での五島昇のあいさつ(1968年)

元石川第一地区起工式直会会場での五島昇のあいさつ(1968年)

自分らで闇夜の烏の姿を見つけていく

出典 東京急行電鉄社内報『清和』 (1976年1月号)

「闇夜の烏(カラス)の声を聞け」という禅の言葉にかけた発言。
上記の言葉の続きには、「必死になって、もがいてさがす。そのうちに夜が明けてくる」とある。オイルショック後の不況下で事業が苦しい状況だった当時、人に頼ることなく、自分の身の回りの仕事を一つひとつ片付け、改善し、それが積み上げられたとき、闇夜の中から光明を見出せるのではないか、と社員に語った言葉だ。

向こう傷を恐れずに、
新しい仕事に立ち向かってもらいたい

出典 東京急行電鉄社内報「清和」(1985年5月号)

昇は、安全な道だけを歩いていては事業は後退すると考え、管理職にも、失敗を許容する風土づくりを指示した。上記の言葉の前後は、次のようになっている。
「向こう見ずの結果の失敗はとがめるが、十分な調査の上でこれならやれると判断してことに挑戦したのにしくじった、というのは向こう傷であり、いうならば勲章だ。だから、向こう傷を恐れずに、新しい仕事に立ち向かってもらいたい。やってみて失敗しても、経験として必ずあとの仕事に役立ってくる」

椰子の木より高いホテルを建てるな

出典 東京急行電鉄社内報「清和」(1989年4月号)

「環太平洋構想」を掲げてハワイやパラオでリゾート開発に着手した昇だったが、「欧米型の観光開発手法だと、優れた場所でもリゾート地にしても三十年も経てば俗化してダメになってしまう」と考えた。地域の環境保全と地域住民との融和を何よりも優先し、すぐに利益がとれなくても構わないと、じっくりと腰を据えて息の長い開発を行う姿勢を示した。

Bunkamuraは日本のものであり、渋谷のものである

出典 東急グループ誌『とうきゅう』(1989年9月号)

グループの本拠地渋谷に、大型の文化施設をつくることは昇の夢だった。その中心となるコンサートホールには、「五島ホール」と名付ける周囲の意見が強かったという。だが昇は、「東急なんて名前は取ってしまえ。まして五島なんてのは絶対につけてはいけない」と語った。