田園調布

多摩川台(田園調布)住宅地 1932(昭和7)年撮影

多摩川台(田園調布)住宅地 1932(昭和7)年撮影

理想の街を目指した前例のない都市計画

田園調布は、東急グループの原点である「田園都市株式会社」の設立のきっかけともいえる街だ。

 

大正時代初期、東京中心部は、第一次世界大戦の戦争特需などで急激な都市化が進み、人口集中による住環境の悪化が問題になっていた。渋沢栄一は、「人は到底自然なくして生活できるものではない」と、この状況を憂慮。英国の経済学者エベネザー・ハワードが提唱した「田園都市論」をもとに、大都市近郊に自然と都市の長所を併せ持つ日本型の「田園都市」をつくる構想をあたためていた。

そんな渋沢のもとに、1915(大正4)年、荏原郡の地主有志が開発の相談に訪れる。現在は高級住宅地として全国的に知られる田園調布だが、当時その一帯は「東京のチベット」とも呼ばれるほど交通が不便な農村地帯だった。その地に東京中心部への通勤の足となる鉄道を通し、それを核として新たな宅地を開発する。渋沢の「田園都市」計画は、実現に向けて動き出した。

「田園都市」計画は、単に住宅不足を補う宅地造成ではなかった。パリの街並みに倣った鉄道駅を中心とする街路(エトワール式道路)や、広い駅前ロータリーと街路樹で「街ぐるみ公園」の実現を狙うなど、自然と都市が調和した理想の生活が実現できる街づくりを目指すという、当時の日本には前例のない都市計画だった。
開発の用地交渉に当たった担当者たちは、この理想を共有。周辺の地主に対して、まだ鉄道の線路も敷かれていない段階から、「自分たちがどんな街をつくろうとしているか」を語り、共感者を増やしていったという。

「田園調布駅」西口駅前 1942(昭和17)年撮影
「田園調布駅」西口駅前 1942(昭和17)年撮影

一世紀を超えて愛され続ける緑豊かな街

田園調布駅から伸びるエトワール式道路と扇形に広がる緑豊かな街並みは、一世紀を経た現在も、基本の形は変わらない。扇の要となる位置には、白い壁、赤い屋根の特徴的な二重勾配の腰折れ屋根(マンサード屋根)の建物が建つ。これは、1923(大正12)年の開業以来長く愛されてきた旧駅舎を忠実に復元したもの。駅の地下化に伴い旧駅舎は1990年に取り壊されたが、地元の人々からの強い要望によって、東急電鉄と地元が協力して復元作業に当たった。2000年にほぼ同じ場所に完成し、今も田園調布のシンボルとして街を見守っている。

旧駅舎とのお別れ会

旧駅舎とのお別れ会

復元された旧駅舎

復元された旧駅舎