渋谷

新路線のターミナル駅として誕生した渋谷駅

開業当時の東横線渋谷駅

開業当時の東横線渋谷駅

新路線のターミナル駅として誕生した渋谷駅

東急グループの本拠地、渋谷。

その最初の一歩は、関東大震災からの復興が進む1927(昭和2)年8月28日、「東横線渋谷駅」の誕生から始まった。

この日、五島慶太率いる東京横浜電鉄は、渋谷と神奈川を結ぶ全長23.9kmの新路線「東横線」の残りの区間となる渋谷~丸子多摩川間を開通、渋谷駅はその起終点として開業した。当時東京では、大震災による都心住宅地の被災を機に「都心で働き、郊外に住む」という新たな生活スタイルが生まれていたが、新路線の開通は、その普及を後押しした。郊外の沿線人口の増加に従って、渋谷駅も大ターミナル駅へと成長していくこととなる。

関東初のターミナルデパートを沿線の人々に

関東初のターミナルデパートを沿線の人々に

現在は日本有数のターミナル駅である渋谷駅だが、開業当時の東横線渋谷駅は、国鉄(山手線)の駅と渋谷川の間の狭い場所にあり、島式1面2線ホームの小さな高架駅だった。その駅の2階に、東横線開業の年末、広さ165㎡と小さいが洋食中心のハイカラなメニューが揃う「お好み食堂」が開業する。その後、食料品などを販売する「渋谷マーケット」も駅1階に開業。これらは、慶太の「沿線に住む人々の暮らしの利便性を高める」という理念から生まれたものだった。

さらに慶太は、「便利良く、良品廉価、誠実第一」をモットーとして掲げて、ターミナルデパートの建設を決意する。師と仰ぐ小林一三の経営する阪急百貨店に社員を派遣しゼロからデパート経営を学ばせたうえで、1934(昭和9)年に、関東初の本格的ターミナルデパート「東横百貨店」を開業させた。郊外に帰る沿線居住者の利便性を考えて、営業時間は夜9時までの年中無休。地上7階建てのモダンな白亜の建物は、東横線ターミナル駅のシンボルとなった。

開業当時の東横百貨店

開業当時の東横百貨店

多くの人でにぎわう開業日の売り場

多くの人でにぎわう開業日の売り場

戦後復興の象徴になった「ひばり号」

ひばり号

子どもたちを乗せて渋谷の空をゆく「ひばり号」
色再現:東急株式会社 撮影:赤石 定次

戦後復興の象徴になった「ひばり号」

東横百貨店の白亜の建物は、太平洋戦争末期の空襲で1階を除いて全焼した。しかし、終戦から1か月後には、焼失を免れた1階を売り場として復旧。慶太が小林一三からヒントを得て、翌年1月には3、4階を映画館・劇場に改装し、食べる物も着る物もない時代の数少ない娯楽だった映画を、市民に提供した。また、1951(昭和26)年には子どもたちのために、東横百貨店から山手線を跨いだ隣の玉電ビルの屋上とを往復して遊覧を楽しむケーブルカー「ひばり号」がつくられた。わずか2年余りの稼働期間ながら、戦後復興の象徴として多くの人々の記憶に残る渋谷の風景となった。

「乗換駅」に甘んじていた渋谷

1950年代には、渋谷駅の1日の乗降客数は約100万人まで増加した。だがその大半の目的地は渋谷ではなく、当時の文化の中心地である銀座などだった。渋谷は、多くの人にとって単なる乗換駅だったのだ。
また、渋谷の地形も街の一体的な発展の妨げとなっていた。渋谷は地名からもうかがえる通り「谷」の地形であり、渋谷駅はその谷の底に位置する。高低差が大きいうえに、北から南に流れる渋谷川と山手線の線路によって、繁華街が道玄坂と宮益坂の東西に二分されていた。

渋谷カルチャーの原点となる駅上劇場

東横ホール

東横ホール。座席総数1002席で、客席最前列が9階、後尾列は10階に相当する。

渋谷カルチャーの原点となる駅上劇場

慶太は、渋谷の発展のために必要なものは何かを見据え、その実現に力を尽くした。

大きな方針の一つが、渋谷の街に「文化」という新たなコンセプトを持ち込むことだった。慶太は、20世紀建築界の巨星ル・コルビジュエに師事しパリ万博で建築部門のグランプリを受賞した建築家の坂倉準三に依頼し、渋谷の大改造に着手する。

1954(昭和29)年に開業した「東急会館(東急百貨店東横店西館)」は、11階建ての上層部に渋谷初の大劇場「東横ホール」を開館。歌舞伎や落語などを数多く上演し、日本橋の三越劇場と並ぶ人気を集めた。今日のBunkamuraや東急シアターオーブに継承される演劇やコンサート、アートなどの渋谷カルチャー、その原点はこの駅上の劇場で生まれたといえるだろう。

「生活文化と娯楽の殿堂」が誕生

開業当時の東急文化会館

開業当時の東急文化会館。現在、この場所には渋谷ヒカリエがある。

「生活文化と娯楽の殿堂」が誕生

1956(昭和31)年には、「文化」のコンセプトをさらに大胆に推し進めた「東急文化会館」が開業。今日のシネマ・コンプレックスの先駆けのような大小4つの映画館や当時最先端だったプラネタリウムをはじめ、資生堂の美容室、銀座の洋品雑貨老舗を集めた文化特選街、結婚式場などからなる複合施設で、まさに「生活文化と娯楽の殿堂」だった。ほとんど高層ビルがなかった渋谷に、銀色の巨大なプラネタリウムドームを冠してそびえたった新たな文化の殿堂は、驚きと興奮を持って人々に迎えられた。当時、東京に遊びに来る子どもたちにとって、東急文化会館のプラネタリウムは、東京タワーや後楽園遊園地と並ぶ人気のアミューズメント施設だったという。

分断された街をつなぎ、
新たな人の流れを創出

渋谷駅周辺中心地区の将来イメージ図

渋谷駅周辺中心地区の将来イメージ図

分断された街をつなぎ、
新たな人の流れを創出

慶太と慶太から指名された建築家・坂倉準三は、分断されていた街をつなげる設計にも重点を置いた。まず、東急会館の改装時には、東横百貨店との間に山手線の線路を跨ぐ大広間のような橋廊を架けた。それによって駅を利用した乗客が自然に百貨店や東急会館に入れる動線を生み出し、今日の渋谷の大ターミナル化を促した。

さらに、東急文化会館をつくり歩道橋で駅舎とつなぐことによって、渋谷川で分断されていた道玄坂と宮益坂の両繁華街を有機的につなぎ、新たな人の流れを生み出すことに成功した。

 

常に時代の先をゆく「文化」で人を呼び、人の流れを生み出す街の設計に工夫を凝らす。

その後のBunkamuraなどさまざまな施設の開業、さらに「100年に一度」と言われる現在の渋谷駅周辺の再開発事業でも、この2つの考え方は、東急グループのすべての計画の根底に変わらず息づいている。