前例のない大事業を推進
多摩田園都市の開発には、交通動脈として20km以上におよぶ大井町線(現在の田園都市線)の延伸が必要だった。当時、これだけ大がかりな新線の建設を計画する民営鉄道は他になかった。昇は強くこれを推進し、1966年に最初の区間である溝の口~長津田間が開通。その後順次延伸し、中央林間までの全線開通には約20年を要した。
計画面積500万坪という国家事業規模の都市開発も、前例のない中、昇自身が先頭に立って地主と対話し区画整理を進めた。1962年に完成した野川第一地区(川崎市)の住宅地は、瞬く間に完売。以降の区画整理事業の「モデル地区」となり、開発は軌道に乗り始めた。1970年には人口10万人を超え、1987年に計画の40万人、1997年には50万都市を達成した。
一方の伊豆開発では、伊東と下田を結ぶ伊豆急行の建設を推進。当初の予定よりトンネル区間が増えて工事費がかさむなどの苦難の中、着工から2年後の1961年に開業した。慶太と地元民の長年の悲願を達成し、本格的な伊豆観光の時代を迎えた。