東急グループの礎を築いた人々

五島慶太 (ごとう・けいた)

1882~1959年

東急グループの実質的な創業者

五島慶太

日本の交通の理想を描き、鉄道事業の道へ

小林一三の要請を受けた五島慶太は、田園都市株式会社の鉄道部門を手掛けることを承諾した。

長野の農家の次男として生まれた慶太は、小学校の代用教員や英語教師で学費を稼ぎながらの苦学の末、29歳で東京帝国大学を卒業し官僚に。鉄道院で日本の交通について理想を描いていた38歳のときに、武蔵電気鉄道から声がかかり、実業界へと転身した。小林から声がかかった当時は、同社の常務として東京・横浜間の鉄道建設のための資金調達に苦心していたところだった。小林は、大きな資産を持つ田園都市株式会社の鉄道部門をまず成功させ、その利益で武蔵電気鉄道も興せば良いと、慶太に説いたのだ。

田園都市株式会社は鉄道部門を分離独立し、1922(大正11)年に「目黒蒲田電鉄株式会社」を設立。専務に就任した慶太が同社を率いる事になった。これが、のちの東急グループの実質的な起点となる。

大震災にも負けなかった田園都市

慶太が指揮する鉄道敷設と宅地造成は順調に進み、1923(大正12)年3月には、目黒線の目黒~丸子間が開通、現在の田園調布付近にあたる多摩川台地区の一部を宅地として売り出した。戦後恐慌が尾を引く不況下にもかかわらず、売れ行きは非常に好調だった。

その年の9月、関東大震災が発生。東京中心部は壊滅的な打撃を受けた。それに対して、多摩川台地区の分譲地は比較的被害が少なかった。この実績から、「事務所は東京に、住宅は郊外に」という機運が生じ、住宅地としての郊外人気が高まった。
この人気は、その後の郊外の私鉄の発展も促していくこととなる。

丸子(現沼部)付近の目蒲線(目黒線)の建設現場

丸子(現沼部)付近の目蒲線(目黒線)の建設現場

目蒲線(目黒線)開通式当日の風景 目黒駅

目蒲線(目黒線)開通式当日の風景 目黒駅

東京の交通の利便性向上を目指して

その後慶太は、武蔵電気鉄道を目黒蒲田電鉄の傘下とし、社名を「東京横浜電鉄」に変更。渋谷と横浜を結ぶ路線の建設に着手し、渋谷〜神奈川間が東横線として1927年に開通した。
その翌年に目黒蒲田電鉄は、元の親会社であった田園都市会社を吸収合併。分譲地の販売を担うとともに、残りの鉄道計画も順調に進めていった。

その間、慶太は東京周辺地域の交通体系の合理化と利便性の向上を目指して、池上電気鉄道、玉川電気鉄道など近隣路線の買収も精力的に進めた。そして、1939年に東京横浜電鉄と目黒蒲田電鉄は合併。(新)東京横浜電鉄として、慶太が社長に就任した。

生活に必要な施設をつくり、街の価値を高める

鉄道の整備だけでなく、慶太は、沿線の街に必要な施設をつくる事業にも力を入れた。
1934年には、東横線の起点となる渋谷駅に、関東初の本格的ターミナルデパートの東横百貨店を開業。1950年代になると、東急病院の開業、レクリエーションや観光業、小売り業などへの進出を次々に実行。1956年には当時の最先端文化を集めた東急文化会館を開業し、渋谷の街の求心力を高めた。

また慶太は、教育事業には特に情熱を注いだ。沿線の土地を提供して、慶應義塾大学や東京工業大学を誘致。さらに、1940年には私財を投じて東横学園(東京都市大学の前身の一つ)を設立した。ここから始まる教育事業が、のちに学校法人五島育英会の設立につながっていく。

開業当時の東横百貨店と東横線 渋谷駅

開業当時の東横百貨店と東横線 渋谷駅

慶應義塾大学と日吉駅

慶應義塾大学と日吉駅

城西南地区開発趣意書

多摩田園都市の構想を描いた「城西南地区開発趣意書」(1953年)

新たな田園都市をつくる壮大な計画

太平洋戦争を経てさまざまな苦難に遭遇しながらも、70歳を超えてなお、慶太の事業への情熱は衰えなかった。戦後、急激に増えた東京の人口と住宅難などの社会課題を踏まえて打ち出したのが、溝の口(神奈川県)以西の広大な未開発地域に新たな田園都市を構築する計画だった。これが、現在は60万人都市となった「多摩田園都市」の開発の原点となる。この計画は、地域の交通の便として有料自動車専用道路(ターンパイク)の建設や開発予定地の鉄道延伸なども含んだ壮大なものだった。同時に、伊豆に鉄道を引き理想的な近郊リゾートとする開発計画なども提案した。
しかし1959年8月、慶太は77歳で病によって死去。これらの事業計画は、次代への宿題として残された。

五島慶太 語録

五島慶太が残した言葉の中から、彼の人となりや事業への思いが感じられるものを紹介します。

電鉄の繁栄より、客の便宜を図れ

出典 東京横浜電鉄・目黒蒲田電鉄「清和」(1934年7月号)

目黒蒲田電鉄の設立から12年経ち、社員が大幅に増加し、経営の考えを全社員に直接伝えるのが難しくなってきたことから、慶太は社内報「清和」の発行を指示。その創刊号には、従業員の行動指針となる「本社のモットー」が掲載された。上記の言葉は、その冒頭に書かれた項目だ。
なお、9つある項目の最後は「仲良く働け、笑って暮らせ」。

※写真は目黒本社での五島慶太の社員訓示(1935年)

目黒本社での五島慶太の社員訓示(1935年)

人の成功と失敗のわかれ目は第一に健康である。
次には、熱と誠である

出典 東京横浜電鉄・目黒蒲田電鉄・玉川電気鉄道社内報「清和」(1937年7月号)

慶太は、貧しい家庭に生まれながらも勉学を諦められず、両親に頼み込んで進学。中学校時代には「大臣になる」という夢を持って、片道3里(12km)の道のりを毎日往復4~5時間かけて歩いて通ったという。そんな経験に裏打ちされた、信念の言葉といえるだろう。
著書『事業をいかす人』では、「健康でなければ、最後まで意地を張ることはできない。積極的に仕事をしようという意欲が出るのは、すべて健康のためだ」と語っている。

学校を誘致するということだけは、私自身の発案であり、
いささか自慢のできることだと思っている

出典 『事業を生かす人』 (1958年刊)

慶太は、私鉄経営の先輩である小林一三を師と仰ぎ、ターミナルデパートの出店など、阪急のやり方に倣うことも多かったという。だが、慶應義塾大学をはじめとする沿線への学校誘致は、教育への思いの強かった慶太の独自の考えであり、彼はそのことを誇りとしていた。

ダンゴの串刺しのように、
郊外からきた私鉄が山手線内へ乗り入れなければ

出典 『事業を生かす人』 (1958年刊)

今では当たり前となった相互直通運転だが、昭和初期には、鉄道会社が変わるたびに乗り換えが必要だった。慶太はその当時から、何が真に生活者の利便性につながるかを考えて、事業の策を練っていた。上記の言葉の前後は、次のようになっている。
「東京の交通機関の欠点は、郊外から私鉄できた乗客が皆、都心へ向かうために路面電車およびバスへ乗り換えていることである。ダンゴの串刺しのように、郊外からきた私鉄が山手線内へ乗り入れなければ、混雑の緩和ができず、交通機関としてのその使命を全うできない」

私は、第二の東京都を作りたい

出典 「城西南地区開発趣意書」 (1953年)

晩年になっても東京や日本の将来を思い、慶太は新しい事業を打ち出していった。多摩田園都市の開発構想を提案した「城西南地区開発趣意書」で、慶太は、新たな街づくりへの思いを次のように述べている。
「東京都は最早これ以上人口が膨張すれば、東京都自体が全部行きづまってしまう状態であります。そこで私は、第二の東京都を作りたいと思うのであります」
その思いが、民間企業による日本最大級の街づくりの原動力となった。

汽車をみたことのない
伊豆半島の住民の悲願を果たす

出典 『事業を生かす人』 (1958年刊)

類まれな観光資源を持ちながら、長らく交通手段に恵まれなかった伊豆。慶太は、伊豆を魅力的なリゾート地として開発し、外国人観光客を呼び込み、国家に貢献したい、そして、敗戦に打ちひしがれた東京都民に「楽しい夢を贈りたい」と考えた。そのため、鉄道工事の相当な困難さも予想しつつ、「しかし、私はこれをやりとげる」と強い決意を語った。