伊豆

60年越しの地元の宿願を叶えた伊豆急行開通

「伊豆にも鉄道を」。それは伊豆半島の住民の明治期からの宿願だった。大正時代に熱海~下田~大仁(修善寺付近)の鉄道が国の計画として策定されたものの、1938(昭和13)年に熱海~伊東が開通した後は、国の財政状況もあり計画は棚上げになっていた。
これを叶えようとしたのが、五島慶太だった。慶太は、陸の孤島だった伊豆に眠る恵まれた観光資源に着目。地元の人々の願いを叶えるとともに、観光地として開発し、太平洋戦争の敗戦で打ちひしがれた東京都民などのため、魅力的なリゾート地をつくりたいと考えた。

テープカットする五島昇

五島慶太の遺影が掲げられた電車の出発式でテープカットする五島昇

1956(昭和31)年に慶太は、伊東~下田間地方鉄道敷設免許を運輸大臣に申請。この申請を巡っては、賛否両論の陳情が運輸大臣になされたが、沿線の町村議会はこぞって協力し免許取得を後押しした。紆余曲折の末、1959(昭和34)年2月に待望の免許状が公布された。しかし、伊豆開発に情熱を注いだ慶太は、同年8月に工事の着工を見ることなく死去。その思いを引き継いだ五島昇は、全長46kmの大工事を敢行し、わずか2年で完成にこぎつけた。

 

 1961(昭和36)年12月の発車式では、慶太の遺影を乗せたハワイアンブルーの祝賀電車が伊東から下田に向けて出発した。沿線の歓迎ぶりは南下するごとに熱を帯びていき、終点の伊豆急下田駅には、下田町長や、ヘリコプターで駆け付けた石原裕次郎をはじめ著名人も参加し、華やかな祝賀行事が行われた。 60年越しとなる地元の宿願が叶ったことで、伊豆半島は東京からもアクセスしやすい観光地として大きな注目を集め、観光開発は急速に進むこととなった。

顕彰碑

伊豆急下田駅を一望する寝姿山の山頂に築かれた顕彰碑

伊豆とともに歩む東急グループ

鉄道の開通を機に、伊豆にはさまざまな東急グループ企業が進出し、事業を展開した。下田東急ホテルをはじめとするホテルや会員制リゾートホテル・東急ハーヴェストクラブの開業、温泉を備えた別荘地の開発などで観光地としての基盤を整え、伊豆の絶景を眺められる寝姿山山頂までのロープウェイを開通して観光客を呼び込んだ。また、小売業の東急ストアやケーブルテレビ事業の伊豆急ケーブルネットワークなど、地域の生活を支える分野にも、次々とグループ企業が進出した。
それらの企業は、地域と一体となって伊豆を全国有数の観光地へと育て上げただけでなく、地域の雇用創出や生活環境の充実にも貢献し、今も伊豆とともに歩み続けている。